子どもは天使なんかじゃない。教育とは、子どもの汚い部分も全て受け止めて真っ正面から向き合う戦いだ。

2014年10月17日

昔から「子どもは天使だ」という考え方が大嫌いだ。

こんな風に書くと、随分冷たい人間だなと思われるかもしれない。

子どもは天使なんかじゃない。ウソも平気でつくし、簡単に人を騙そうともする。ズルいことだって平気でやる。自分より立場が弱い者がいればみんなでよってたかっていじめたりもする。大人よりも理性が利かない分、子どもの方が残酷だったりする。子どもが本当に天使なのは、お母さんのお腹から産まれ落ちた瞬間くらいだ。そこからスクスクと育っていくにつれ、色々なことができるようになり、たくさんの知識を吸収していくにつれて、ウソをつくことを覚え、人を騙す方法も知る。子どもが成長するってことはそういうことだ。

塾で日々子どもと接していると、勉強を通して子どもが少しずつ成長する姿に励まされることもある一方で、子どものそういう汚い部分が嫌でも見えてしまう。うちの塾は世間一般では『イイコ』の部類に入っているだろう生徒が多いと思うが、俗に言うイイコだって神の子じゃない。人間の子だ。宿題を丸写ししてくる時だってあるし、ウソをつくことだってある。すぐに楽な方へ楽な方へと流されてしまいそうになることだってしょっちゅうだ。

子どものそういう汚い部分を直視することを避け、子どもも大人も表面だけを見て仲良しごっこをやっていればそりゃ楽だろう。楽しいだろう。でも、本当の教育ってそんなおままごとではない。一人の子どもをきちんと教育して学力をつけさせるためには、見たくない現実を見なければいけないし、教える側も教わる側も、傷つく覚悟を持って子どもの負の部分とぶつかり合わなければいけない。本当に子どもと向き合うってことは、そういうことだと思う。

教育の現場はある意味戦場だ。「子どもは天使だ」と目を細めていたって本質は何にも見えないし何も変わらない。ウソを言ってごまかそうとする子のウソを見抜いてはなぜウソをついてはいけないかということを諭し、努力することを放棄しようとする子を取っ捕まえてはなぜ努力することが大切かを教え、すぐにサボろうとする子と何度も話をして勉強と向き合わせる。まるで泥水の中を傷つく覚悟で進むような、そんな現場が教育なんだ。

今日は、中1生の嫌な部分が見えた日だった。うちの塾では授業でやった数学のテストの間違えた部分を、その日の授業後に個人個人でやり直しをして、全部できた人から帰宅するシステムになっている。分からない問題があればノートやテキストを見て復習をし、全て自分の力で解けるようにするためだ。それを、ワイワイしながら一部の生徒達がお互いの解答を写し合いをしていた。しかも真面目に取り組んでいる生徒がいる横で。

中1生にこれだけ声を上げて怒ったことは初めてだと思う。もちろん、こっちだって怒りたくないし生徒だって怒られたくないだろう。見て見ぬフリをしてやり過ごし、茶番みたいなやり直しを続けていくことの方が、お互いにとってどんなに楽か分からない。でも、お互いに傷ついても嫌な現実としっかりと向き合わないと、塾は教育という仮面つけた子どもを甘やかせるだけのゆるーいサービスに成り下がり、誰も何も得ることはなくなってしまう。

子どもは天使なんかじゃない。どんな子でも醜い部分を持っている。まずその前提から始める。その前提があれば、十分良い教育はやっていけるんだと思う。「うちの子に限って・・・」「うちの生徒に限って・・・」と子どもを信じたい気持ちも分かる。でも、信じることと目を背けることとは違う。良い事も悪い事も全部、ちゃんと受け止める。受け止めて、向き合う。だからうちの塾は厳しいと言われるのかもしれないが、それが教育をするということなんだと信じている。