一日の大半を学校で過ごす子どもの日常では、勉強がかなりの割合を占める。勉強ができれば学校の授業がわかるので、勉強ができないよりも学校生活は当然楽しい。そのうち、勉強ができるだけで子どもは妙なエリート意識を持つようになり、勉強ができないだけで落ちこぼれ感情を持つようになる。たかだか小学校や中学校の勉強ができるだけで「エリート」や「落ちこぼれ」などの意識を持つのは勘違いも甚だしいのだが、この勘違いがその後の子どもの人生に大きな影響を与えてしまうことがある。
自分がエリートだと妙な勘違いをしている子は、多少難しい問題があっても、「成績優秀なオレに解けないはずがない」と思って取り組む。自分は本気を出せばある程度のことはできるはずだと彼らは思い込んでいるフシがある。一方で、成績が優秀でなかった期間が長い子は、多少難しいことがあると、「どうせオレには解けるはずがない」と思って取り組む。言葉は悪いが、落ちこぼれ根性が身に染み付いてしまっているのだ。
つまり、エリート意識を持っている子とそうでない子とでは、物事に対する取り組み方の姿勢が180度違うのだ。最初から「オレにはできる」と思って取り組むのと、「オレにはできるはずがない」と思って取り組むのでは、たとえ両者の基本的な能力が同じくらいだとしても、結果はまるで変わってくる。スタート地点の気持ちが全く違うのだから、結果が違ってくるのは当然だ。
塾でテストをしたときに、生徒の答案用紙を採点していると、この両者の違いは明確にわかる。「どうせできない」と思って問題を解いている子の答案用紙は、やたらと空欄が目立つ。「オレにはできる」と思って問題を解いている子の答案用紙は、たとえ答えが間違っていても何としてでも答案を埋めようとしてきている様子がわかる。間違った解答と空欄では、その時ばかりは点数に変わりはないが、その後の成績の伸びは全く違ってくる。
ただ勉強の成績が良いだけで培われる妙なエリート意識は、その後の人生にも大きな影響を及ぼすだろう。自分はできることを前提としているので、何事にもまずやってみようというチャレンジ精神が旺盛になる。できると思って取り組み続けていると、大概のことはできてしまうし、周りの人も「この人ならやってくれるんじゃないか」と考えて、いろんな機会をどんどんと与えてくれるようになり、結果的に実りの多い人生を歩んでいく。一昔前ほど学歴社会とは言えなくなった日本でも、いまだに高学歴の人が「いい会社」と呼ばれるようなところに就職したり、起業家になったりしているのも、高学歴の人ほどこの妙なエリート意識が高いからだろう。
かといって、エリート意識ばかり高すぎるのも考えものだが、小さい頃に勉強によって培われた妙なエリート意識によって、その後の人生を肯定的に捉えやすくなるんじゃないかな。