子どもの読解力を低下させてしまった犯人は誰だ!?(1人目)

日本の子どもの読解力が落ちてきている。

私の塾での担当科目は英数理で、直接的に国語を指導しているわけではないにもかかわらず、読解力の低下を日々痛感している。
どんな科目でも「次の文を読んで、あとの問いに答えなさい」との指示で問題が始まるが、あとの問いに答える前に「次の文」が読めない生徒が多くなっているのだ。英語ならまだしも、日本語で書かれているはずの数学や理科での「次の文」が読めない。いや、正確に言うと「次の文」が読めないのではなく、字面を追っているだけで書いてある内容を全く理解していないのである。このような生徒が年々著しく増えてきているように思う。

ハッキリ言う。今の日本の子どもの読解力は危機的状況だ。このままだと、日本の子どもの学力水準は下がっていく一方だろう。
そこで、日本の子どもの読解力を低下させてしまった犯人は誰だ!?というシリーズを書きながら、読解力の低下の原因について考えてみたい。

学校の国語の授業で読解法が教えられていない事実

子どもの読解力が落ちている原因の一つは、学校、特に小学校の国語の授業で、読解の方法や技能はほとんど教えられてないことだ。もちろん、しっかりと読解力を子どもに身につけさせる授業をしていらっしゃる先生も中にはいるだろうが、私の感覚から言えばほんのごくごく一部の先生だけだ。

他の大多数の先生が国語の授業で行っていること。それは、国語ではなく道徳の授業だ。
ちいちゃん
例えば小学校の国語の教科書に「ちいちゃんのかげおくり」という物語がある。昔から教科書に載っているので誰もが一度は読んだことがあるだろう。いわゆる戦争についての物語文である。

この物語を題材にした学校の国語の授業は、だいたい次のようなことが繰り広げられている。まず、先生が情緒豊かにしっとりと朗読をする。その後、教室の子供達に物語についての感想を書くように指示をする。子どもたちから出てくる感想と言えば、

子供A「戦争はやってはいけないと思いました。」
子供B「ちいちゃんが死んでしまったので、とても悲しかった」
子供C「戦争はこわいと思いました。」

子どもたちがそれぞれの感想を発表し合ったあと、先生が改めて戦争のおそろしさについてを話し、「戦争のない平和な世の中の大切さ」をみんなで確認し合って授業が終了する。子どもはみんな戦争のおそろしさや平和の大切さに気付くことができた。みんなの自分の意見も発表できた。なんて素晴らしいことなんだろう。めでたしめでたし。

・・・・この授業でどうやって読解力が身に付くというのか。
物語を読んで感じた感想を書きましょうという先生は実に多い。それもそのはず、教科書の指導書にも「物語を読んで感想をまとめましょう」ということが書かれてある。作文を書くことで、書く力を鍛えていこうという主旨なのだろうか、全くもって的外れだ。

こういう戦争に関する物語を読めば、だいたいみんな「悲しかった」「戦争はいけない」という似たり寄ったりな感想しか書かない。そりゃそうだ。戦争に関する物語文を読むと、誰だって悲しい気持ちになるし、戦争はいけないという気持ちになる。万が一でも、ここで「ちいちゃんが死んでおもしろかった」「戦争はなんてスリリングでエキサイティングなんだろう」という感想を書いてしまったものなら、先生に全人格を否定されることくらい小学生の子どもだってわかる。だから、みんな無難で当たり障りのない先生が喜びそうな感想を書く。

この授業で身に付く能力といえば、「空気を読む力」くらいのものだろう。
これは国語ではなく、道徳である。確かに戦争のおそろしさを子どもに伝えていかなければいけない。でも、それは道徳の時間に思いっきりやればいい。国語の時間である必要が一切ない。戦争に関する物語が題材だとしても、国語の時間で教えなければいけないのは、戦争のおそろしさではなく、物語を読み取る力である。

もしも塾の授業でちいちゃんのかげおくりを題材にするのなら、このような授業はしないだろう。
まず先生が情緒豊かに読み上げたりはしない。耳で聞いて理解させるのではなく、あくまでも目で文を読んで理解できなければお話しにならない。一通り文章を自分で読ませて、必要ならば辞書で意味調べも行い、その後感想を述べ合うのではなく読解をさせる。
「ちいちゃんが死んでしまったとわかる一文を本文中から書き抜きなさい」
「ちいちゃんがまだ生きている証拠となる表現を本文中から抜き出し、その部分が生きている証拠だとわかる根拠を答えなさい」

などの設問を与えてから、もう一度読ませる。その際、場面の変化を正しく捉えられるように、表現の変化にチェックさせる。設問の答えとなるところに傍線を引かせる。・・・といったところだろうか。

戦争のおそろしさについてや命の大切さ、生徒それぞれの感想などには一切触れない。冷血人間でもなんでもなく、国語で扱う文章というのは、それがいかに道徳的なものであっても、あくまでも読解法を訓練するための”素材”に過ぎないからだ。国語の授業で大切なことは「感じさせること」ではない。「読み取らせること」だ。

このように、今の小学校の国語の授業では、国語という名の道徳の授業が延々と繰り広げられている。道徳的なことは学べるかもしれないが、読解法の「ど」の字さえも身に付けることなく、子どもは小学校の6年もの時間を過ごす。

子どもの読解力を低下させてきた犯人たちの1人。それは小学校の国語の授業だ。
国語の時間に道徳を求める授業をいち早くやめ、読解の方法や技能を低学年から身に付けさせる「国語」の授業を行ってもらいたいと切に願う。

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