ダメダメの塾から学年トップが通う塾になるまでの道のり(3年目)

2014年11月2日

しばらく間をあけてしまいました。

ダメダメの塾から学年トップが通う塾になるまでの道のり(1年目)

ダメダメの塾から学年トップが通う塾になるまでの道のり(2年目)

生徒の不合格。入院。そして復帰。

2年目に不合格者を出したこと。例え本人達が納得した上の受験だったとしても、指導者としての無能さを痛感した。なぜ希望する高校に合格するだけの学力をつけてあげられなかったんだろう。名も無き塾を信頼してくれて、最後までついてきてくれたのに、おれは何をしていたんだろう。この塾の何がいけなかったんだろう。何度自問自答を繰り返したか分からない。

タイミング悪く、不合格者を出した春にちょっとした病気をしてしまい、手術・入院にかかる2週間くらい、塾をあけなければならない期間があった。独立してから走り続けてきた2年間。それまで授業に穴をあけたのは、親父が亡くなったときの3日間くらいだった。ちょっとくらい風邪を引いても、気合いでなんとかしてきた。でも、この時こそはさすがに無理。塾のことは相方に任せ、大人しく療養させてもらうことにした。

当時のブログ「ご報告」

入院中の2週間は、独立後はじめてゆっくりとした時間を送ったときかもしれない。今から思うと、多分この時期相当疲れていた。塾を独立してから2年間。塾を何とか軌道にのせること、何とか塾生の成績を伸ばすこと、何とか理想の塾をつくることばかりに必死で、塾の本質である「授業」を楽しむなんていう心の余裕はなかった。大手塾にいた頃、大手の方針には嫌気が指していたが、それでも授業すること自体を嫌になったりはしなかった。授業のあのライブ感、生徒との一体感が大好きだった。

入院中の2週間は、心の休息にもなった。最初こそゆっくりとした時間を楽しんでいたが、途中からただ寝てばかりの入院生活に飽き飽きし、「授業がやりたい!」と心から思うようになった。最後の方なんかは、早く授業をやりたくてウズウズしていた。

入院から16日目で塾に復帰。久しぶりに生徒たちに会い、生徒たちの前に立ち授業をした。復帰早々傷口が開くかと思うくらい怒ったりもしたけれど、それも含めて授業をすることがものすごく楽しいことに気付いた。自分の塾で、誰の指図も受けずに自分の理想とする教え方で授業ができることがこんなに楽しいとは思わなかった。

復帰当時のブログ「お久しぶりです」

塾生を不合格にしてから入院、手術、そして復帰まで。色々なことがあった2010年3月だったが、いろいろなことがあったお蔭で、原点回帰することができた。

塾の基本となる授業にもっと力を入れよう。生徒の学力を高める授業をもっと研究しよう。塾生が希望の高校に行ける学力を授業で養えるように。

入院から復帰初日、静かにそう決心した。

勝手に目標を西湘以上と決める。

塾の目標を「西湘高校(地域2番手校)以上の学力をつける」と勝手に決めた。当時は入塾基準なんてないに等しかったから、塾には通知表に2がある生徒なんてザラで、とてもじゃないけど地域2番手校以上を目指せるような学力がある生徒なんてほとんどいない。でも、決めた。生徒に西湘以上に行けって強要する意味じゃなくて、この塾自体が生徒に西湘以上の学力をつけてやれるようにという意味だった。

しかもチラシにも堂々と書いた。「西湘以上を目指してます」って。何度も言うけれど、当時は通知表に2があるような、いわゆる「できない子」が行く塾だった。地域のみなさんにも、「厳しい塾」とは認識されていたけれど、決して「できる子が通う塾」とは認識されていなかった。

案の定、地域の人からは笑い者。塾生の保護者からも、「先生、知り合いのお母さんが慧真館のチラシみてビックリしてたよ。“西湘以上って(笑)”」と、見事に笑い者にされていることを聞いた。そりゃそうだ、こんなダメダメ塾がなにを大口叩いてるって普通なら思うだろう。でも、そんなことはどうでもよかった。だって塾の方針としてそう決めたんだから。

「焼き肉」をエサに頑張らせた

1年目・2年目も定期テスト前の土日に勉強会を開いていたが、強制的なものではなく、あくまでも自由参加だった。自由参加にすると、来なければいけないようなヤツが来ないで、逆に来なくてもいいような生徒が来る。世の中そういうもんだ。そして、自由参加としているにもかかわらず、「なんでアイツ来ないんだよ!」ってこっちがイライラする。まさに悪循環!

そんな状況を打破すべく、「だったらみんな強制的に参加」ということにした。当然、ブーたれるヤツもいる。何とか定期テストに向けて頑張らせる方法はないかと考えたところ、思いついたのは焼き肉。「そうだ、テストの点数よかった生徒には焼き肉に連れてってやろう。だったら皆がんばるんじゃないか。」

なんという安直な考えだろうと今なら思うが、これが結構生徒に受ける。「テストの合計得点が8割超えた中2・中3生は、もれなく焼き肉に連れて行きます。」というと、みんな目の色を変えて勉強した。単純すぎるぞ。

今でこそ塾生の定期テストの合計得点は8割以上が大多数だが、当時はほとんどが8割未満。とりあえずテストの点数がよくないことには、西湘以上なんて夢のまた夢。テスト勉強会を強制参加にすることでテスト前に土日は8時間以上の学習時間を確保し、焼き肉をエサにして生徒を鼓舞し続けた結果、3年目の終わりには半数くらいの生徒が8割以上をとるようになった。中には9割以上をとって、学年で数番以内に入る生徒もでてきた。もちろん、彼は焼き肉の常連さん。

授業と自学のクオリティを上げていく

自分自身にも生徒にも、「西湘以上を目指すぞ!」と言い続けた。もちろんただ言い続けるだけでなく、授業や自作テストのクオリティまですべて見直し、改善に改善を重ねていった。あとは、今まで以上に「やりきること」を大切に指導していった。それまでの再試制度に加え、数学の毎回のテスト(10問テスト)で間違えたところを授業後に自力で全部できるまでやり直しさせた。なかにはなかなか家に帰れなくて泣き出す子もいたり、親御さんから「こんな遅くまで何やってるんですか」なんて叱られたりしたが、それでも妥協せず徹底的にやり直しをさせ続けた。

また、3期生から受験前の11月から週5日通塾を義務付けた。週3回の授業以外の週2回も塾にきて、それぞれの受験勉強をしてもらう。受験勉強の各科目のやり方は徹底的に教えてある。これまでの定期テスト勉強会で、いい勉強の仕方とよくない勉強の仕方も伝えてあった。あとは、それを実践する時間を確保するのみとのことでの週5日通塾だ。

当時の受験勉強会の様子「教えない勉強会」

3期生に対しては、とにかく授業と自学のクオリティを上げることを意識していた。もともと自分で勉強できない子達がほとんどだった。でも、西湘以上に行くには自分で勉強できないと話にならない。自習の度に勉強の仕方をチェックしたり、毎日のどんな受験勉強を何時間したかという記録を一人ひとりノートに記させたりした。

そうすると3期生たちは勉強の仕方がどんどん上手になった。ある子は問題集を何周もしたり、ある子はひたすら模試のやり直しをしたり、またある子は間違い直しノートを書いたり、自分にフィットする「勉強の仕方」というものを確立できていた。

西湘以上と言い続けてきた結果

人に笑われようが、この塾は西湘以上を目指すと言い続けて1年。いよいよ3期生の後期合格発表のときが来た。
昨年2人不合格にさせたので怖さはあったが、当時はなぜか自信の方が大きかった。あれだけやってきた。去年とは比べ物にならないほど、いろんなことをやってきた。塾生も素直についてきてくれた。そんなヤツらが、落ちるわけないだろうと思っていた。

結果、見事全員合格を果たす。しかも当時の3期生12人中、9人が西湘以上の偏差値の学校へ進学した。その中には地域トップ校の小田原高校に進学した生徒もいた。できない子の集まりだったダメダメ塾から小田原高校が出てしまったのだ。

その後から、誰もうちの塾を「できない子の塾」と言わなくなった。西湘以上とチラシやパンフレットに書いても、誰も笑わなくなった。何より、当時の中1生や中2生たちが、「西湘以上を目指して当然。何ならトップ校目指すか。」みたいな雰囲気になっていった。

塾の雰囲気や周囲の慧真館に対する認知の仕方が、3期生の合格を機にガラリと変わっていった。

ちなみにまったく関係ないが、私はこの年に結婚をした。

(4年目に続きます)