読書会課題本「飛ぶ教室」ーなんて素晴らしい作品だろう。

2017年5月11日

今日は今年度最初の6年生の読書会でした。

今月の課題本はエーリヒ・ケストナーの「飛ぶ教室」。

昨年度の読書会でも、ケストナー著の「エーミールと探偵たち (岩波少年文庫)」を読みましたが、個人的には「飛ぶ教室」の方が好きな作品です。

ドイツの児童文学作家のエーリヒ・ケストナーが「飛ぶ教室」を書いたのが、1933年です。ちなみに、ちょうどこの年のはじめ、ドイツはナチス政権の手に落ちました。ファシズムを非難していたケストナーもナチスによる圧迫を受けたようです。そんな大変な戦火の中でも、子どもたちのためにと、この小説が書き上げられました。

まえがきの中に、このような一節があります。

かしこさをともなわない勇気は乱暴でしかないし、勇気をともなわないかしこさは屁のようなものなんだよ。世界の歴史には、かしこくない人々が勇気を持ち、かしこい人々が臆病だった時代がいくらもあった。これは正しいことではなかった。

この物語が描かれた背景を考えると、ケストナーのこの言葉が、より深く心に沁みてきます。

登場するキャラが全て愛おしい

さて、「飛ぶ教室」の物語自体は、クリスマスの時期の寄宿舎を舞台に、それぞれ個性がキラリと光る5人の少年たちが、勇気と知恵を振り絞って色々な事件に立ち向かっていくという話です。

この主人公5人をはじめとする、物語に登場するキャラクターが、みんなとても愛おしい。ケストナーはそれぞれの登場人物に、「活発な」「勇気のある」「子どもらしい」などの“陽”の部分だけではなく、「貧しい」「素直に自分をさらけ出せない」「親に捨てられた」「臆病者」などの“陰”の部分もきちんと持たせている。

もちろん、物語自体は、少年たちの生き生きとした“陽”の部分が主体的に描かれているのですが、それと同時に丁寧に描かれる“陰”が、この児童文学により一層の深みをもたらしているように思います。

少年時代にも、苦しみや葛藤はあるということ

どうしておとなは、自分の子どものころをすっかり忘れてしまい、子どもたちにはときには悲しいことやみじめなことだってあるということを、ある日とつぜん、まったく理解できなくなってしまうのだろう。

人形がこわれたので泣くか、それとも、もっと大きくなってから、友だちをなくしたので泣くかは、どうでもいい。人生、何を悲しむかではなく、どれくらい深く悲しむかが重要なのだ。

これは「飛ぶ教室」のまえがきからです。大人がこの「飛ぶ教室」を読むと、本編よりもむしろ「まえがき」に心を打たれるでしょう。

子どもにだって、悩みはある。自転車に乗れないこと、誰かと喧嘩したこと、宿題ができないこと、テストで悪い点数をとってしまったことなど・・・。大人にとってみれば、「なんだそれくらい」と思ってしまうようなことでも、子どもにとっては、それが最大の関心ごとであり、人生を揺るがすくらいの一大事なのだということを、私を含め、大人はいつから忘れてしまったのでしょう。

大人も子ども、みんな何かに悩み、誰かに励まされ、仲間と支え合って生きている。だからこそ、強くて優しくて、そして深い。この本を読んでいると、そういうことに気付かされます。

キャラのドイツ語の名前が覚えにくい

この物語は、序盤にとにかくたくさんの登場人物が次から次へと出てきます。しかも、日本人には馴染みのないドイツ語の名前がつけられていますが、これが小学生にとってこの物語を読みにくくしてしまいます。

今日の読書会では、最大の難関である登場人物の相関関係やキャラクターを全て整理することから始めました。それぞれのキャラと名前が一致すれば、ぐっと読みやすくなるでしょう。これから「飛ぶ教室」を読もうという方や、読書会等で子どもに読ませようという方は、登場人物をメモなどで整理しながら読んでいくことをオススメします。

おわりに

この小説は基本的には子ども向けです。話は分かりやすく明快で、登場人物のドイツ語の名前を除けば、難しい表現もありません。しかし、是非大人にこそ読んでもらいたい小説です。

小説の中に登場する先生や子どもたちが発するセリフ。ケストナー自身が書いたまえがき。子ども向けの言葉で簡単に書かれているからこそ、ストレートに、そして深く心に突き刺さります。

親子で同じ小説を共有してみてください。