新学力観は中学生の精神を疲弊させる

2012年7月15日

イマドキの中学生の内申事情は、一昔前と比べて大きく様変わりしているのはご存知だろうか。私が中学生だったかれこれ17年前は「内申点がいいヤツ=頭がいいヤツ」という方程式が常識だったのだが、その方程式は今の時代には全くもって当てはまらない。今の内申の新常識となっているのは、「内申点がいいヤツ=先生に気に入られているヤツ」という方程式である。

文科省が、生徒の知識・理解よりも興味関心意欲を評価するという「新学力観」というものを持ち出してから、内申点の付け方の常識が今までのものと180度ひっくり返ってしまった。定期テストなどのペーパーテストの成績はたった25%程度しか考慮されず、残り75%は意欲関心や態度、表現などの教師の主観で内申点が付けられる。つまり、いくら定期テストの点数が良くても、意欲関心や態度に積極性が見られない場合、通知表にはとんでもない数字が並ぶということだ。

自分の塾にも、定期テストで満点に近い点数を取っているにも関わらず、通知表には4とか、ひどい場合には3をもらう子なんてザラにいる。そうかと思えば、塾で教えている立場の私から見ても、英文法がメチャクチャな生徒の英語の成績が5だったり・・・。

興味意欲関心を評価したいという教育者側の心情も分からなくもない。知識や理解が悪くても、一生懸命頑張っている生徒は、人間的に評価してあげてもいいと思う。

でもね、連休中の深夜に誰もこのブログを見ていないと思うので、この際だから言いたい放題言わせてもらいますけれども(いつも言いたい放題だけどね)。

英語や数学などという学問の評価に対して、「理解」の評価を軽んじているなんて、学問への冒涜に他ならないと思いますが。

だって、学問ってのは理解してナンボでしょうよ。一生懸命頑張ったとしても、先生に気に入られるノートを提出したとしても、授業中に何度も発言したとしても、理解無しではその学問に対して優秀な成績を修めているとは言えない。学問ってのは理解することが重要であり、理解するために一生懸命頑張るってモノだと思うのですが。

でね、私が一番許せないのは、この学問を冒涜しているかのような評価制度のせいで、中学生の精神が疲弊しているということなのです。先生の主観が75%も占める評価制度のせいで、中学生は3年間ずっと教師の目を気にしなければいけないようになった。先生にどうしたら気に入られるのかを考え、先生に嫌われることに対して極端に怯えるようになった。自分の行きたい志望校がやっと見つかって、これから頑張っていこうっていう子も、「俺は先生に嫌われているから、どんなに頑張ったっていい成績がもらえない」って思うようになった。

いつの間にか、成績は「自分の学力を上げていい成績を取りにいく」という主体的なものから、「先生に気に入られていい成績をもらう」という受動的なものに成り代わってしまった。この結果、中学生は頑張り方が分からなくなった。一生懸命テストで頑張っていい点数を取ったって、成績はいっこうに良くならない現実に、「どうせ俺は嫌われているから、何したって無理なんだ」と投げやりになってしまう子だっている。

これはもう、ゆとり教育以上の大問題だと思うんですけど。中学生というただでさえも多感な年頃に、教師の顔色を3年間ずっとうかがっていないと地元の公立進学校には入れないということが、日本にどんな国益をもたらすのだろう。その中学生に、どんなに素晴らしい未来をもたらすのだろう。

毎日中学生と接しているから分かる。この内申評価制度は、学問を冒涜しているばかりか、確実に中学生の精神を疲弊させ、「大人に好かれる技術」だけを向上させている。頑張り方が分からない中学生を増やしている。

私ができることは、そんな中学生に対して学力を身につける協力を惜しまないことである。「そんなことない!たとえ先生に嫌われたって、学問をしっかりと身につけることを頑張れば、憧れの高校に行けるんだ」と、もう一度彼らに希望を持たせることである。