精神論からそろそろ脱却した方がいいんじゃないか

2013年1月15日

今年の受験合宿が終わった。2泊3日で総勉強時間数は30時間。まさに寝食以外の時間はほぼ勉強に費やす勉強漬けの3日間だった。

塾の合宿と言えば、頭にハチマキを巻き、皆で「エイエイオー」などと威勢のよい掛け声をかけて、深夜1時2時まで勉強するイメージを持っている方が多いだろうが、うちの塾の合宿はそのイメージとは少々異なる。勉強漬けにはなるが、夜は23時には就寝させるし、頭にハチマキなんかも巻かない。威勢のよい掛け声も、気合いを入れる精神論も皆無で、ただ淡々とひたすら授業と自習に打ち込む内容で、イベント色を一切排除している。合宿がイベント化してしまってはいけないというのが私の持論であるからだ。

イベント化した合宿に付き物なのは、睡眠時間を削って無茶をして勉強させるような精神論。私の意見では、塾での受験勉強の指導において、行き過ぎた精神論は必要ない。

連日体罰の問題が話題となっているが、日本の教育で問題なのは、軍国主義の時代からから続く教育現場での精神論至上主義の指導であると思う。

もちろん精神的な強さは勉強には欠かせない。同程度の学力ならば、精神的に強い子どもの方が伸びやすいことは、長年受験指導をしてきた経験から断言できる。しかし同時に言えることは、気持ちが技術や実力を越えることもない。

精神論は麻薬によく似ている。授業で精神論を語れば、そのときばかりは生徒もハイテンションになり、ヤル気を引き出すことができるかもしれない。しかし、精神論によって引き出されたヤル気は結局長続きせず、2〜3日経てば元の木阿弥となる。麻薬の効果が切れたからだ。その状況を見て、指導者はまた生徒に精神論という名の麻薬を投与する。しかし、こればかりを繰り返しても、生徒の技術や実力は向上しないし、本当の意味での精神力も身に付かない。精神論を語っている暇があるなら、その時間で解法テクニックを一つでも二つでも教えた方が、よっぽど受験に役立つと思う。

最近話題の指導者による行き過ぎた体罰も、暴力による究極の精神論だ。力量のない指導者ほど、精神論を用いたがる。問題があったとき、「気合い」や「もっと気持ちを込めろ」や「とにかく頑張れ」などという精神論を語っておけば、何となく生徒はヤル気になり指導者の体裁は保たれるのだが、結局のところ精神論では物事の本質は何も見えず、問題は解決されない。力量のある指導者は、「気合い」などという抽象的かつ非科学的な言葉を使うことなく、問題の本質を分析し、的確に指導するだろう。

これは指導を受ける生徒側にも言えることである。勉強の反省のとき、「気合いが足りなかったから気合いで頑張る」「もっと頑張る」などという精神論で片付けようとする生徒は、決まって伸びない。上手くいかなかった原因の本質を突き詰めようとしていないからだ。

精神論は、指導者にとっても生徒側にとっても思考をストップさせてしまう。指導者にとってはその場しのぎの“指導者自身のため”の無責任な指導に過ぎず、生徒にとっては気持ちの問題として問題を摺り替えてしまい、そこから何も発展していかない。軍国主義から続く20世紀型の精神論至上主義から脱却していくことが、今の教育の現場には必要なのだと思う。