子どもの「なんで勉強しなければいけないの?」に対しての答えはコレ

2012年7月22日

お母さんが子どもに聞かれたら一番困る質問のナンバーワンがおそらくコレ。「なんで勉強しなければいけないの?」という質問。大人にとって、これほど聞かれて嫌な質問はありません。大人だって子どもの頃に一度は同じような疑問を抱いたことがあるし、大人になってからだってこの質問に対して「コレだ!」って明確な答えは見つかっていない。大人であれば何となく勉強が大切ってことは肌で感じているけれども、勉強が全くできなくても立派に生きている人もいて、何が何でも勉強は大切だっていう確信は持てない。でも、自分の子どもには勉強出来るようになって欲しいから、「勉強なんてしなくてもいいのよ」なんて口が裂けても言えない。

さんざん悩んだ挙げ句、「勉強すれば選択肢が広がるのよ」と一般論を言ってみるか、「アンタ、そんなこと言いながらただ勉強したくないだけなんでしょ」と逆ギレしてみるか、「それは大人になったら分かるよ。それより今度のテストが良かったらゲーム買ってあげるよ。」とモノで釣る作戦に走るかのいずれかの対応をとるが、そのいずれも明確な答えにはなっていない。

で、自分だったらどう答えるか考えてみた。
一言、「自由に生きるため」である。

『武器としての思考決断力』の冒頭にもこう書かれてある。

 大学生のあいだでは「パンキョー」と呼ばれている一般教養課程、英語では「リベラルアーツ(Liberal Arts)」と言います。

なぜそう呼ぶか、みなさんは考えたことがありますか?

リベラルとは本来「自由」を意味する言葉で、アーツとは「技術」のこと。すなわちリベラルアーツとは、意訳すると「人間を自由にするための学問」なのです。

その起源は、古代ギリシャにまでさかのぼります。当時の社会には奴隷制度があり、奴隷と非奴隷を分けるものとして、学問の重要性がさけばれていました。かなり大雑把に言えば、学のない人間は奴隷として使われても仕方ない、ということです。

奴隷制度こそはなかったが、日本でも今のような普通教育が普及する以前、学のない人は自由に生きられない時代があった。農家に生まれた子は農家、商人の子は商人というように、本人の意志とは無関係に生き方を決められていた。それじゃあまりにも可哀想だから、色んなことができるようにしてあげようということでできたのが普通教育なわけで、普通教育が広まって皆平等に勉強ができるようになったことで日本人も自由な生き方を手にしてきた。

普通教育が当たり前のように広がって、誰も勉強することを「自由を得るため」だなんて思っていない現代でも、勉強ができた方が自由な生き方ができることに変わりはない。たいていの会社や職場では、クリエイティブで自由に意思決定できる仕事というのは、勉強によって得られる学歴や能力が高い人によって独占されているのが現実。学歴や能力のない人は、既に上が決めたことを命令される側で、自由に働く権利が与えられないことが多い。

仕事だけじゃなくて、例えば海外旅行に行くにしても、英語ができる人は、旅行社によって決められた無駄で不自由なことが多いパック旅行なんかじゃなくて、リュックサック一つ背負って自分の行きたいところを勝手気ままに放浪する自由が許される。

結局のところ、勉強によって得られる教養や学歴っていうのは、人が自由に生きていくための最強の武器になる。お金も強力な武器になり得るのだけれど、そのお金を稼ぐのだって教養や学歴を身につけることでカバーできるのが勉強のいいところ。勉強することではお金の問題をカバーできるけれど、お金で勉強をカバーできないでしょ。

子どもってのは自由を履き違えていて、「自由=ルールや制約のない世界」だって考えている。でも本当の自由って、ルールや制約のある世界の中でもやりたいことができるって状態のこと。子どもの頃に勉強に縛られるのは自由に生きるためであり、子どもの頃に履き違えた『自由』を謳歌して勉強を放棄してしまったら、結局縛られた世界の中で生きていかなければならなくなる。

・・・ってことを自分だったら子どもに説明するかな。こんな小難しい話をして、子どもが「フムフム、そうか!じゃあ父ちゃん俺今から勉強するよ」ってなるかどうかは甚だ疑問だけれど(笑)