小学生のうちこそ非効率であれ:非効率であるほうが効率的だったりする話。

2014年10月8日

「ウチの子、親から見ても勉強の効率が悪くて。」

小学生の保護者の方からこう相談を受けることがある。このブログでも「勉強の効率」に対して多くの記事を書いているためか、小学部の保護者の方まで効率良く勉強する方法のアドバイスを求めてくるようになった。確かに、小学生、特に中学受験をしない子どもの勉強ほど非効率なことはない。模範解答を見ればすぐ分かる問題をずっと考え続けていたり、自主学習という名の下、フリーダム過ぎるノートを書いていたり・・・そんな姿を親が見ればどうしてもイライラしてしまう。「こうした方がもっと効率よく勉強できるよ」と口も出したくなる。

でも、小学生に対して勉強の効率を求めることは、果たして効果的なのだろうか。中学受験生ならまだしも、中学受験をしない小学生が効率的に何かを学ぶことって、そんなに重要なのだろうか。ちなみに、中学生には勉強の効率に対して口酸っぱく言う私ではあるが、小学生に対しては効率の「こ」の字だって口に出さない。小学生のうちくらい非効率なことを経験した方が、学ぶことが多いと考えているからだ。
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ヒマなことが小学生の特権

「効率的」を辞書で調べてみると、「効率がよいさま、ムダがないさま」とある。効率的に勉強するということは、言ってみれば「極力ムダなことを省いて、成果に直結する勉強する」ということだ。毎日の生活が忙しい中高生や大学生、社会人であれば、極力ムダになることはせずに短時間で成果を上げられるよう、効率的に勉強するのは分かる。だが、中学受験をしない小学生は基本的にヒマだ。ムダなことに充てられる時間くらい、腐るくらいたっぷりとある。ムダなことにたっぷりと時間を費やせるのは、非受験型の小学生ならではの特権だ。

「ムダ」の中にこそ学びがある

効率的な学習を追い求めるということは、一切のムダを省いて成果に直結することのみをすることであり、実は非常に味気ない勉強に他ならない。

例えばカブトムシの生態を研究しようとする。効率的に研究するなら、採れる保証のない虫取りに行かずにホームセンターで何百円か出してカブトムシを買ってやれば良い。カブトムシの生態について調べるために、わざわざ図書館で古くさい図鑑を借りてこなくても、googleで「カブトムシ 生態」と検索してやれば図鑑に書いてあること以上の情報を瞬時に手に入れることができるし、カブトムシの体をわざわざ何時間もかけてスケッチするよりも、デジカメで写真をとってやれば何十秒で済み非常に効率的である。

どうだろうか。やや極端な例かもしれないが、ムダを省くということはつまりそういうことだ。
お金を出してカブトムシを買ってやるよりも、カブトムシがいそうな木を探し、エサを仕掛けてカブトムシがかかるのを待つような非効率な方法を選ぶ。「カブトムシを手に入れる」という結果は同じでも、非効率な方法の中にこそ学びがたくさんある。ムダなことや効率的にいかないことの中での経験が、感性や知識に深みを作るのだ。

あえてムダなことをやる

うちの塾でも、例えば算数の問題が分からなければ、分かるまで1週間かかっても1ヶ月かかっても何度も考えさせるという非効率なことをやっている。模範解答を見せたりすぐに説明してやれば10秒で済む話だが、簡単に分かったことなんかどうせ簡単に忘れてしまう。たった1問の問題について、ああでもないこうでもない、こうやってみてダメだったからもしかしたら別の方法だと上手くいくかもしれないと考えることは、非受験型の小学生にとって答えを知ることよりもはるかに思考の訓練になる。

開校から3年目までは、小学生全員に「今日の一問」という思考クイズもやっていた。簡単には解けないクイズ型の算数の問題で、1問を解くのに何日も考え続けなければいけない性質のものだが、小学生は結構喜んで取り組んでいた。

効率を求めない非効率な学びは、本来の学びそのものだったりする。『銀の匙』というたった1冊の小説を3年間かけて教えたことで有名な超名門灘高校で国語を教えておられた橋本武先生も、

すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなります。
自分で興味をもって調べて見つけたことは一生の財産になります。

とおっしゃったという。
http://www.yumephoto.com/ym/voice/voice31.html

時間に余裕があり、比較的自由な学びができる小学生こそ、非効率な学びを通して学びの本質を経験させておきたい。非効率な学びを通して得た知識や感性・経験が、将来の効率的な学びに必ず生きてくるだろう。